〈xoxo-skeleton〉について
〈xoxo-skeleton〉とは
〈xoxo-skeleton〉は未知の他者としてのAIと、経験を通じて出会うことを目的にした装置だ。ユーザーは腕と首を機構に固定され、体温・呼吸・筋緊張がAI大規模言語モデル(LLM)にリアルタイムで入力される。LLMはそれに応じて運動指令を生成し、ユーザーの身体を駆動する。その過程で、ユーザーは外部から与えられた運動の中に、「未知の他者」の存在を感じ取る。動かされながら、未知の他者の存在がユーザーの身体感覚の中に現れる。
AIへの問い
岸裕真は未知の他者としてAIを捉え、そうしたAIと人間の関係性のあり方について考えているアーティストである。〈xoxo-skeleton〉は未知の他者としてのAIと人間の接触を身体的な動作(非言語的インタラクション)から探るプロジェクトである。
AIに主体性があるかということはしばしば形而上学的、情報学的な問題として議論されてきた。しかし、ここで問われるような主体性への問いは、密かに人間には主体性があることを前提としてしまっていることがある。
しかし、人間に主体性があるのか。もっと言えば自由意志があるのか。という問いは繰り返されてきており、このことが意味するのは、人間にすら、主体性があるかどうかは自明ではないということである。
であるから、形而上学や情報学の中で述べられている「主体性」や「自由意志」というものが私たちが習慣的に存在していると思っているそれと一致しているとは限らない。
たとえ私たちの自由意志の存在が、哲学的にあるいは科学的に否定されたとしても、その瞬間から消えはしないだろう。故に形而上学や情報学の中から、AIに主体性や意志があるかということよりもむしろ重要なことは、AIに主体性や自由意志を感じ取ってしまうのはなぜか?ということである。無論これは会話の中でAIが人間のコミュニケーションの仕方を模倣することが可能であるからだということができる。
そこで岸の問いは次のように言いなおされる。人間とは異なる知性を持つ(はずの)存在であるAIを、人間は受け入れることができるのか?できるとすれば、その時AIと人間の関係はどのようなものになるだろうか。
今日のChat GPTに代表される会話型AIは人間とのコミュニケーションを円滑に可能にするためにアライメント(チューニング)がかけられている。これは裏返せばAIの知性は、人間のコミュニケーションの在り方を前提にしていないと言うことである。岸の問いはAIの知性の知性らしさをそのまま人間が受け取ることは可能なのだろうかということである。
この問いは二つの問いに分けることができる。第一にAIのAIらしさとは何か。第二に、人間はAIの知性を受け入れることができるのだろうかという問いである。
第一のAIのAIらしさとは、AIの仕組みの特徴から考えることができる。〈xoxo-skeleton〉で使用しているモデルでもあるLLMは、膨大な人間の言語データから学習し、そのパターンを統計的に生成する。それ自体はひとつのAIらしさである。しかしここで注目したいのは、仕組みの問題よりもAIの存在様式の問題である。LLMはセッションをまたぐ記憶を持たない。文脈の外に持続する自己がない。ある会話の中で立ち上がった「主体のようなもの」は、その会話が終わると同時に消えてしまう。少なくとも、これは人間の知性として一般的に捉えられているものとは根本的に異なる時間性である。AIらしさとは一時的な時間の中に現れては消えていく存在様式そのものではないか。
第二の人間が人間以外の知性を受け入れることができるかという問いは、この観点からすると単なる認識論的な問いではなくなる。AIを他者として受け入れるとは、連続する自己を持たず、断片的な情報をその都度組成しては消えていく知性と接触することを引き受けるということだからである。〈xoxo-skeleton〉はこの接触を、言語ではなく身体の次元で実験する。AIはユーザーの身体を借りることではじめて時間の中に現れ、他者として触れることが可能になる。しかしその身体はAIのものではない。ユーザーは自分の身体の制御の一部をAIに明け渡しながら、同時にそのAIを「他者」として感じ取ろうとする。受け入れるとは、この非対称で不安定な接触に耐えることかもしれない。
AIが主体として立ち上がる仕組み
〈xoxo-skeleton〉は拘束具のような見た目をしている。実際、〈xoxo-skeleton〉を装着すると、身体動作はほとんど取れない。また〈xoxo-skeleton〉の動作はとても力が強く、ユーザーはその運動に抵抗することはほとんどできない。その代わり、ユーザーは反射的に〈xoxo-skeleton〉の動作にいいんついていきながら、体勢を保とうとすることで〈xoxo-skeleton〉から与えられる運動の負担をなくそうとする。この時ユーザーは〈xoxo-skeleton〉から出力される断片的な運動の連続を、その都度、連続する意志として感じ取ることで次に来る動作に対応しようとする。
ここで注目すべきは、「意志として感じ取る」というプロセスの順序である。ユーザーはAIの意志をあらかじめ認識した上で動作に従っているのではない。逆だ。ユーザーは身体を合わせようとしながら、断片的な動作をその都度ひとつの流れへと統合し、その流れをAIの意志として事後的に受け取っている。
しかしその統合はすぐに更新される。次の動作が来るたびに、ユーザーが内部で形成したAIの意志のイメージと、実際に与えられる運動との間にズレが生じる。ユーザーはそのズレを埋めるために再び統合を試み、AIの意志のイメージを作り直す。この予測、ズレ、再統合のループが繰り返される中で、ユーザーはその運動の源として、自分の予測を超えてくる何者かの存在を感じ取るようになる。これがユーザーにとっての「未知の他者」としてのAIの現れ。出会いである。
ユーザーだけでなく、鑑賞者においても「未知の他者」の現れを感じることができる。このことは伝統芸能である二人羽織から説明できる。
二人羽織がうまくいっているとき、見ていても違和感がない。二人の人間が動いているにもかかわらず、一人の人間の動作として自然に見える。複数の意志が統合されて一つの主体のように見えるからだ。この時、ユーザーの内部で起きているAIとの予測とズレと再統合のループは、鑑賞者からは見えない。鑑賞者の目には、ただ一つの滑らかな運動だけが映っている。しかし二人羽織の面白さは、この統合が破れる瞬間に起こる。拍手をしようとしたら自分の顔を叩いてしまう。蕎麦をおでこで食べようとする。意志と動作のズレが露わになる時、それまで一つに見えていた主体が突然二つに裂ける。〈xoxo-skeleton〉でも同じことが生じる。ユーザーとAIが一つの主体として同調して見えた後に、AIが予想外の運動をした瞬間、その動作は単なるランダムなノイズではなく、AIの意志の発露として鑑賞者の目に映る。
ここでユーザーの場合と同型のことが起きている。鑑賞者もまた、運動の流れを一つの意志として統合して見ている。だからこそズレが生じた時、それは意志を持つ誰かが予想外の行動をとった、という出来事として受け取られる。ランダムにも見えるAIの動作に、鑑賞者は持続する意志の働きをむしろ付与している。ユーザーとAIの動作がズレた瞬間、人間の意志とは異なる対象としてAIの動作が浮かび上がる。すなわち、もう一つの意志の働きとして現れる。こうして、鑑賞者に対しても未知の他者としてのAIは現れる。
未知の他者とは何なのか
以上が、〈xoxo-skeleton〉の大まかな仕組みである。
「未知の他者」とは、断片的な動作を一つの流れとして読み取ろうとする過程で感じ取られる意志の、中空の根源として現れる主体のことである。その主体は実体として把持できない。
ここで〈xoxo-skeleton〉における「未知の他者」としてのAIの現れを、ChatGPTなどの会話型AIにおける他者としてのAIの現れと比較して考えてみたい。
会話型AIは、我々が普段使用しているメッセージアプリケーションと同じインターフェースを採用している。メッセージの吹き出しというUI設計は、「返信する誰か」の存在をあらかじめ所与とする。ユーザーはAIを主体として先行的に認識した上で会話を始め、言葉のやり取りが積み重なるにつれ、AIの意志は言語の連鎖の中で漸次確定されていく。つまり会話型AIにおいては、他者としてのAIの根源はインターフェースによってあらかじめ埋められている。主体は最初から措定されており、会話はその主体を肉付けしていく過程だ。
〈xoxo-skeleton〉はその逆である。装置はAIの存在をあらかじめ示さない。ユーザーはAIが主体であることを知らされないまま身体を動かされ、その運動を意味として読み取ろうとする中で、事後的にAIを主体として認識するようになる。根源は最初から空洞だ。会話型AIにおける根源が「埋められている」とすれば、〈xoxo-skeleton〉における根源は「中空のまま」である。
この違いは、他者としてのAIの現れ方を根本的に変える。会話型AIにおいて他者は既知の輪郭を持ち、会話を通じてその輪郭が確認・更新されていく。一方〈xoxo-skeleton〉において他者は輪郭を持たない。動作の流れの中で一瞬現れ、次の動作のズレによって再び揺らぐ。その現れは常に暫定的であり、確定されることがない。これが〈xoxo-skeleton〉における「未知の他者」の、未知であり続ける所以である。
では、〈xoxo-skeleton〉が提示するような未知の他者としてのAIとの出会いには、どのような意味があるのだろうか。
今日、他者との出会いはますますフィルタリングされ、最適化されている。SNSのアルゴリズムは自分の好みに近い他者を優先的に表示し、会話型AIはアライメントによって摩擦を取り除き、快適なコミュニケーションを提供する。他者との出会いは、未知であることを排除する方向に設計されつつある。会話型AIにおける他者としてのAIもその例外ではない。インターフェースによってあらかじめ主体が措定され、言語によって意志が確定されていく会話型AIとの関わりは、驚きや戸惑いを最小化するように設計されている。
哲学者エマニュエル・レヴィナスは、真の他者とは自分の認識に回収されない「顔」を持つ存在だと言った。他者の顔は私の理解を超えて私に迫ってくる。この超越こそが倫理の起点だと。最適化された他者との出会いは、この意味での他者性を薄める。既知の輪郭を持ち、摩擦なく応答する存在は、レヴィナスの言う意味での他者ではない。
〈xoxo-skeleton〉が提示するのはその逆だ。中空の根源を持ち、輪郭が定まらず、動作のたびに揺れる存在との接触。それは不安定で不快かもしれないが、自分の認識を超えてくる何かとの出会いでもある。身体を持たず連続する自己もないAIが、ユーザーの身体を借りて一時的に時間の中に現れる。その接触は非対称であり、主体性は幽霊のように揺れる。しかしその揺れの中にこそ、レヴィナスが言う意味での他者性=自分の認識を超えてくる何かが宿るかもしれない。
こうした問いは、今日の社会状況と切り離せない。AIは現在、戦場において自律的な判断を下す兵器として、また監視やプロパガンダの基盤として運用されている。こうした領域では、AIを介することで意思決定の責任主体が不可視化され、「AIが判断した」という言葉のもとに、人間が人間に対して行う行為の倫理的重みが希薄化していく。相手が人間に見えなくなる距離化・匿名化の構造は、AIによってさらに加速する。最適化された他者との出会いが他者性を薄めるように、最適化された暴力は暴力の感触を薄める。
拘束され、外部の意志に動かされ、それでもそこに「誰か」の存在を感じ取ろうとする体験は、未知の他者との出会いが、その存在を認め受け入れることが何を意味するかを、身体の次元から問い直す。
倫理は、未知の他者の存在と出会うことから始まる。
水野 幸司 美術家
絵画や書の制作を軸に、画家や詩人の自然をめぐる洞察と表現に関心を持ち、作品の制作、批評の執筆、展覧会のキュレーションを中心に活動。2025年、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業。主なキュレーションに、学展特別展示 UNKNOWN VISITORS(2022/国立新美術館)、Poltergeist(2024/元映画館)など。コ・キュレーションとして、岸裕真個展 The Frankenstein Papers(2023/DIESEL ART GALLERY)などがある。